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「ありがとう」のサイン
2017 / 08 / 04 ( Fri )
シジミがわが家に来てから3年半がたちます。
前の盲導犬スースーとは性格も行動も全然違うシジミですが、私もシジミのしぐさのいくつかがわかるようになってきました。
盲導犬は基本的にはほえないので、ほえ声から犬の意図を察するということはできません。まあ、シジミは前の盲導犬スースーと違って家の中ではかなりよくしゃべるのですけれど、それはまたいつか書くことにします。

私がよくやるのは、シジミのそばにかがんで、顔のすぐ横で質問することです。
私:「シジミ、ここでワンツー(トイレのこと)したい?」
答が「イエス」の時はシジミはすばやくこちらをむいて私の顔をペロッとなめます。「ノー」のときは反応しません。
何かを感謝する「ありがとう」のときもしぐさが決まっています。
そんなとき、シジミはまず私の正面に立ちます。それから一瞬私の顔を見つめてからゆっくりと近づいてきて、私の顔をゆっくりとていねいになめるのです。
このときのなめ方は、すごくうれしくて興奮して私にとびついて顔をなめるときとは全然違います。
ゆっくりとていねいに、心をこめてなめている感じです。
そんなとき、私はいつも頭の中でシジミの「ありがとう」という声が聞こえるような気がするのです(笑)。

この「ありがとう」のサインにも感謝の気持の強さによって違いがあります。
感謝の気持が強いときは、シジミはまず前脚を床にすわっている私のひざのうえにのせてから私の顔をなめます。

シジミが「ありがとう」と伝えてくるのは、マッサージをしてもらう時と、今のように暑い季節なら、保冷剤を手ぬぐいで首に巻いてもらったときです(笑)。

先日も、猛暑日で家の中もけっこう暑く、シジミが暑そうにしていたので、私は冷凍庫から保冷剤を取り出して、シジミに聞いて見ました。
私:「シジミ、これ首に巻く?」
シジミはうれしそうに駆け寄ってきて、頭を下げて首を出し、「お願いします」のポーズをとりました。
保冷剤を手ぬぐいで首に巻くと、「気持いい~」とばかりにしっぽを振っています。
ところが、もう慣れてきたせいか、シジミは「ありがとう」のサインなしにその場を離れようとしました。
これまでちゃんと伝えていた「ありがとう」を省略するのはよくありません(笑)。
私は向こうへ歩いて行こうとするシジミを呼び止めました。
「シジミ、『ありがとう』は?」
するとシジミは「あっ、そうだった」とばかりに私のところへ戻って来ました。
そして、私の正面に立つと、ひざに前脚をのせて、ていねいに「ありがとう」の気持を伝えてきたのでした(笑)。


☆最近読んだ本:
『デルフィニア戦記7-14』茅田 砂胡著
『営繕かるがや怪異譚』小野不由美著
『ハリー・ポッターうらばなし』J.K.ローリング(インタビュー)
『シンギュラリティは近い 人類が声明を超越するとき』レイ・カーツワイル著

☆最近聴いた音楽:
『バッハ:マリンバによる無伴奏作品集1・2』加藤訓子
『バッハ:平均律クラビーア曲集1』グレン・グールド
『ファーザー・オブ・ザ・デルタ・ブルース』サンハウス
『サムシング・フォー・ビル・エバンス』イリアーヌ
『ディシプリン』キング・クリムゾン
『レッド』キング・クリムゾン
『ワン・オブ・ザ・カインド』ビル・ブラッフォード
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シジミのモーニング・コール
2017 / 07 / 18 ( Tue )
わが家では、日曜日はみんな少し寝坊します。
私もいつもよりちょっと遅く起きますが、シジミの朝ごはんがあるのでそれほど寝坊はしていられません。

私が起き上がってふとんを片付けると、シジミはいつものように畳の上でひっくり返ってお腹を見せて盛大にしっぽを振ります。しっぽは畳をこすって「ザッ、ザッ」と座敷わらしのほうきがような音を立てます(笑)。
「シジミ、おはよう!」
私がひっくり返ったままのシジミのお腹をなでると、シジミはうれいそうに足をバタバタさせます。

それから私たちは階下に降ります。階段を降りながら、シジミがゴキゲンにブンブン振るしっぽが横に並ぶ私のおしりをパンパンと叩きます。
シジミのトイレと朝ごはんをすませ、一段落したところで私は
「シジミ、みんなを起こそうか」
とシジミに声をかけます。
それを聞くと、シジミはしっぽを盛大に振りながら階段を駆け上がってゆきます。
私があとから階段を上がってゆくと、シジミは階段を上がりきったところで待ちきれないようにこちらを振り向いて待っています。
「早く、早く!」
と言いながらシジミがうれしそうに笑っているのを感じます。
私は子どもたちが寝ている部屋のドアをちょっとだけ開けてから、
「よーし、シジミ、行け!」
とシジミをけしかけます。シジミはドアの隙間を抜けて部屋に飛び込んで行きます。
部屋の中からは、
「ワッ!」
「ギャー、踏むなぁ!」
と、シジミに顔をなめられたりふまれたりして起こされた子どもたちの声が聞こえて来ます(笑)。
やがて、シジミが
「起こしたよ!」
とドヤ顔で部屋から出てきます。

そんな休日の「ドッグ・モーニング・コール」は、シジミの楽しみの一つなのでした。


☆最近読んだ本:
『白い犬とワルツを』テリー・K著
『ビーの話』群ようこ著 
『犬の十戒』長谷川理恵訳
『犬心』伊藤比呂美著
『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ著
『見えてしまう人々』オリバー・サックス著
『白と黒の扉』川添 愛著
『ホイッパーギル河の伝説』キャシー・アッペルト、アリスン・マギー著
『天空のミラクル』村山早紀著
『デルフィニア戦記1・2』茅田 砂胡著
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「アイマスク体験」にまつわる誤解
2017 / 05 / 15 ( Mon )
「アイマスク体験」というものがあります。
これは、見えている人にアイマスクをつけてもらって視覚が使えない状態にし、視覚障害者の感じる世界を体験してもらうというものです。
この「アイマスク体験」は視覚障害者の関連イベントなどで「視覚障害者の世界を体験してみましょう」としてよく行われるものです。
アイマスクさえあれば、それをつければすぐに「見えない状態」を経験することができるからです。
(おことわり:視覚障害者というと、実際には弱視から全盲までさまざまな見え方の人が含まれますが、ここで「視覚障害者」と書いている場合は、中途視覚障害者で全盲である私の見え方を元に書いています。)

実は、この「アイマスク体験」は、「みえない状態の体験」ではありますが、「視覚障害者が感じる世界の体験」ではありません。
なぜならここには、
「視覚障害者が感じている世界は、晴眼者の世界から視覚情報を引き算した世界である」
という誤解があるからです。
これを読んで、
「えっ?視覚情報がない世界=視覚障害者が感じる世界ではないの?」
と思う人は多いでしょうし、そう思うのが自然だと思います。
アイマスクをした晴眼者も視覚障害者も「見えない」という点においては同じだからです。

でも、アイマスクをしている晴眼者と視覚障害者が感じている世界は同じものではありません。
そのことを理解するためには、「人はどのように世界を見ているか」について知る必要があります。
それを含めて以下に説明します。

人間は、五感を初めとする感覚の情報の中から、自分にとって意味のある情報を取捨選択して自分のまわりの世界を「組み立てて」います。
目や耳などの感覚器から入って来る感覚の情報量は膨大なので、脳はそれらの情報の中からその人にとって意味のある情報だけを拾って処理し、それ以外の情報はスルーしてしまっているのです。
つまり私たちは、目に入ってくる映像、耳に入ってくる音、身体に感じる触覚などの情報をすべて脳で処理しているわけではなく、瞬間ごとに自分にとって意味のある情報だけを材料として世界を「組み立て」ている、ということなのです。
よく「私たちは観たいものしか見ていないのだ」と言われたりしますが、それはこのことを表現しています。

人間以外の動物や昆虫も感覚の情報を材料として世界を「組み立てている」のは同じですが、人間とは違う構造の目や耳や、人間にはない触覚など、人間とは性能が違う「感覚器」を持っているのでそれぞれの種が「組み立てている」世界も違ったものになりますこれは世界を組み立てる材料としての感覚の情報がそもそも異なるのですから当たり前です。

例えばチョウは人間には感じられない紫外線を「色」として見ることができますし、動物の多くは人間には見えない赤外線を見ることができたり、コウモリは人間には聞こえない超音波を使って外界を感じ取っています。
また、イタチは、動いているネズミには反応しますが、動かずにじっとしているネズミが目の前にいても見つけることができないそうです。生きている動物をエサにするイタチにとって動かないネズミの資格情報は脳では意味のないものとしてスルーされてしまうからです。
このように生物は種によって異なる感覚の情報で世界を「組み立て」ています。

この、生物それぞれが自分が組み立てた世界のことを生物学者のユクスキュルは「環世界」と呼びました。著書『生物から見た世界』の中でユクスキュルは、人間、動物、昆虫など生物はそれぞれ違った「環世界」を見ている、と書いています。
そして人間を含めたすべての生物は自分の感覚を通してみる「環世界」しか認識できません。つまり決まりきった「本当の世界」というものはどこにも存在せず、それぞれが違う「環世界」を見ているのです。

したがって同じ人間でも、材料として使う感覚の情報は全く同じものではないはずです。年齢、性別、性格、生活環境や文化、職業、障害の有無などの違いによって個々の「環世界」はある程度似ていながらも微妙に違っているのだと思います。
例えば、職人や芸術家が普通の人には感じ撮れないような微妙な音や質感を感じ取ることができるのは、彼らが普通の人がスルーしてしまうような微妙な感覚の情報も拾って自分の世界に組み入れているからなのだと考えられます。

ここまで読んで、
「自分のまわりの世界なんてそこに最初から存在するもので、自分が『組み立てている』わけではないのでは?
と思う人もいるかも知れません。
ではちょっと次のようなイメージの実験をしてみて下さい。
もしあなたが今パソコンの前にすわってこれを読んでいるとしたら、まず目をつぶってみて下さい。これで視覚情報が遮断されます。
同じ容量で聴覚、嗅覚、味覚も感じなくなった、とイメージしてみて下さい。
視覚と聴覚、嗅覚の情報がなければ、自分のまわりの世界がほとんどわからなくなるはずです。
今は椅子に触れている身体や床に触れている脚、テーブルに触れている手の触覚や、身体の姿勢の傾きなどを感じる深部感覚、呼吸や心臓の拍動などの内臓の感覚だけが残っています。
では、それらの感覚もすべて遮断されたとしたら、どう感じるでしょうか?
おそらくその状態ではもはや自分の身体がここに存在する、という感覚もなければ、まわりの空間さえかんじることはできず、「自分」という意識がただ漂っているだけのように感じられると思います。
感覚の情報がなければ、自分の身体もまわりの世界もその存在を認識することはできないからです。

ではこんどはこの過程を逆にたどってみて下さい。
すると、自分の身体が感じられるようになり、さらにまわりの世界の存在が実感できるようになるはずです。
これをやってみると、私たちは感覚の情報を感じ続けることによってのみ、自分の身体やまわりの世界が存在することを
認識できる、ということが理解できると思います。
自分の「環世界」はこのようにして感覚情報を材料にして「組み立てられ、その情報が脳で処理され続けることによってのみ維持されているのです。。

ここまで書いたところで、晴眼者と視覚障害者の「環世界」の違いについて考えてみます。
先に「環世界」は感覚情報を材料として組み立てられている、と書きました。
だとすると、それぞれの「環世界」は、次のようになります。
●晴眼者の「環世界」:資格を含めた五感をはじめとする感覚情報を材料として組み立てられている世界
●視覚障害者の「環世界」:視覚以外の感覚情報を材料として組み立てられている世界

アイマスク体験は、視覚情報も含めた晴眼者の「環世界」から視覚情報を覗いた世界の体験です。
ここで改めて「アイマスク体験」を考えてみるとそれは、
「五感をはじめとする感覚で組み立てられた世界から、80%を占めると言われる視覚情報が欠落した、残り20%の視覚以外の情報だけの世界」
を体験する、ということです。
一方視覚障害者の「環世界」は、
「視覚以外の感覚情報で組み立てられた100%の世界」
です。その世界に視覚情報は含まれていませんが、聴覚、嗅覚、触覚などの感覚情報は、晴眼者の世界に比べて情報量がはるかに多く、それらの感覚に関してはずっと豊かな世界だったりします。

これで
「晴眼者がアイマスクをして体験する世界は視覚障害者の感じている世界と同じものではない」
ということを理解して頂けたでしょうか。
このように、「アイマスク体験の世界」と「視覚障害者の世界」とは質的にかなり異なる世界なのです。

でも、視覚障害者について考えられるとき、この「環世界の違い」ということはほとんど考慮されていないように思います。
そもそも生物が種によって違う「環世界」を感じていること、ましてや人間も個々の異なった「環世界」を感じている、ということもほとんど知られておらず、誰もが共通の決まりきった世界を観ている、と漠然と信じられているのが現状なのですから当然のことです。
なので、視覚障害者の「見ることができない」という状態にのみ焦点が当てられて、視覚障害者はどのように世界を感じているか、どのように世界を「組み立てて」いるか、ということは考慮されていないのです。

晴眼者の「環世界」を前提にしてみてしまうと、視覚障害者の世界は「世界の80%を占める視覚情報が大きく欠落してしまった世界」であり、100パーセントの情報を持っている晴眼者と比べれば「かわいそうな存在」「劣った存在」という風に見えてしまいがちです。
視覚障害者はしばしば晴眼者から「かわいそう」と同情されたり、「そんなことができるなんてすごい」と感心されたり、何か劣った存在として扱われてしまったりすることがありますが、それはこのような視覚障害者の感じる世界に対する誤ったイメージから来ているように思います。

もしそうだとすれば、視覚障害者に関する安全対策やバリアフリー化など、行政や企業による対策にも「視覚障害者の環世界」という視点はほとんど反映されていないことが予想されます。

もちろん、「見えないこと」だけに焦点を当てた視覚障害者に対するさまざまな方策は視覚障害者の不便さをカバーすることに役立っています。
「見えないこと」だけに焦点を当てても対応可能な方策は沢山あり、私たちはしばしばその恩恵を受けているからです。

それでも例えば視覚障害者の駅ホームからの転落事故などを考える場合、「なぜ視覚障害者はホームから転落するのか」という原因について深く考えようとするなら、「見えていないから」という要因だけでは細かい原因や対策を考えるには不十分だと思います。
この場合、視覚障害者が駅ホーム上ではどのように周囲の世界を組み立てているのか、という視点が必要だからです。

私は、これらの問題は「異文化理解」の問題と同じではないか、と思っています。
「環世界の違い」というのは、そのまま「文化の違い」という言葉に置き換えることもできるからです。

「異文化理解を深めるためには、その文化をできるだけ知ってもらう必要があります。そのための「異文化交流」も必要です。
したがって、晴眼者と視覚障害者の認識のギャップを埋めるためには、視覚障害者自らがもっと自分たちの「環世界」を理解してもらうためのアピールをしてゆくことが必要ですし、そのためのいわば「異『環世界』交流」のようなものも行なわれる必要があると思います。

私は中途視覚障害者で、20代までは晴眼者でした。その後25年くらいかけて少しずつ見えなくなってゆきました。
なので私は晴眼者の感じる世界も視覚障害者の感じる世界も体験しています。

視覚障害者の感じている世界が、一般的にイメージされがちな「暗闇の世界」などではなく、晴眼者が感じる
世界とは質的に異なる「豊かさ」を持った世界であるということをもっと知ってほしい、と私は思うのでした 。


☆最近読んだ本:
『すべての見えない光』アンソニー・ドーア著
『しいちゃん日記』群ようこ著
『夜に鳴く鳥は』千早あかね著
『8割の人は自分の声がキライ』山崎広子著
『お面屋たまよし』石川 宏千花著
『夜行』森見 登美彦著

☆最近聴いた音楽:
『ファンタスティックOTG』奥田民生
『フォスフォレセント・ブルース』パンチ・ブラザース
『モンク・ヒムセルフ』セロニアス・モンク
『ダズ・ヒューモア・ビロング・イン・ミュージック?』フランク・ザッパ
『ドビュッシー 前奏曲第一集』クリスチャン・ツィメルマン
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シジミはゴキゲンななめ
2017 / 04 / 27 ( Thu )
私の一頭目の盲導犬スースーと二頭目の盲導犬シジミはかなり性格が違っていました。
なので、シジミがわが家にやってきたときにはその違いにけっこう驚きました。
スースーと8年間一緒に暮らした私は、「盲導犬ってこんな感じなんだな」と勝手に思い込んでいたのですが、シジミは全然違う性格だったからです。
まあ考えてみればこれは当たり前の話で、盲導犬と言ってもあくまで個々の一頭の犬であることに変わりはありません。
犬それぞれに性格が違うのが当たり前なのです。

パートナーとしての盲導犬が替わるということは、人間で言えば仕事上のパートナーが変わる、というような感じなのだと思います。
「新しいパートナーは前任者とかなりタイプが違う人だった」というような感じです。

スースーは穏やかで繊細で、まわりに気を使うけなげな性格でした。
一方シジミは陽気でタフで、けっこう主張が強く感情がはっきり態度に出る性格です。
スースーとシジミが職場で働いている社員だとしたら、
スースーは「いつも穏やかでまわりに気を使い、言われた仕事はそつなくこなすけれど、繊細で緊張しやすくちょっと撃たれ弱いタイプ」
シジミは「陽気でタフで能力も高いが、マイペースな気分屋でやる気が出ないと仕事が少し雑になるタイプ」
といった感じです(笑)。これだけ性格が違うと、気持ち良く仕事をしてもらうための接し方もかなり違ってきます。
とはいえ、私はどちらの性格も、困ったところもかわいいところも含めてそれぞれに愛すべき性格だと思っています。
タイプは違っても、彼らは私の歩行を一所懸命サポートしてくれて、家ではいつでも私を信頼してかたわらに寄り添っていてくれる存在だからです。

盲導犬というと、一般的には
「ストイックでいつでもユーザーに忠実な優等生」というイメージを持っている方も多いと思います。
もちろんそんな完璧な優等生のような盲導犬もどこかにはいるかも知れませんが、私がこれまでにであった盲導犬たちは完璧とは言えないけれど、それぞれいろんな性格やクセを持った愛すべき犬たちでした。
仕事はちゃんとこなすけれど、それぞれに性格のクセがあり、ちょっと困ったところやおバカなところ、かわいいところがあったりするのです(笑)。

仕事をしているときの盲導犬のイメージは、制服を着て仕事をしている人間のイメージと似ていると思います。
例えば看護師さんや飛行機のキャビン・アテンダントさん、警察官や消防士の方々など制服を来ている方々も、一人ひとりは個性が違う一人の人間ですが、制服を来て仕事をしている姿には一般的なその職業のイメージというものがあります。

盲導犬に対するイメージもそういう「作られたイメージ」なのだと思います。
ハーネスをつけてきちんと仕事をしている時でも中身は一頭の犬であることに変わりはないのです。

さて、今私のパートナーであるシジミは、一言で言えば
「わかりやすい性格」です(笑)。
まわりに気を使う犬だったスースーが気持ちをあまり表情や態度に出さなかったのに比べて、シジミはそのときの気分や態度がかなりはっきり出るからです。

特にシジミは、気分が顔の表情に出るようです(笑)。
もちろん私にはシジミの表情は見えません。なのでまわりの見えている人に聞くようにしています。

シジミは、うれしい時は目がキラキラしていて、さらにゴキゲンになると口が開いてきます(笑。)
でも、機嫌が悪くなると眉間にシワが寄って来るのです^^;。
ハーネスに伝わる動きからでもある程度シジミの感情がわかります。
機嫌よく歩いているときは力が抜けていてまっすぐ軽々と歩きますが、何かあると動きが鈍くなったり、少し蛇行したりし始めます。
近くにワンちゃんがいたり、トイレに行きたくなったりしても動きが変化するのでだいたいわかります。

あれ、歩き方がちょっとへんかな、と思ったとき、まわりに家族などがいてくれれば、
「今、シジミどんな顔してる?」
と聞くことがあります。
この時に、
「眉間にシワが寄って、『ブー』という顔になってるよ(笑)」
という時は、シジミがゴキゲンななめの状態なのです^^;。

先日、ある大きな施設にシジミと一緒に行く機会がありました。
施設に入ると、そこの床はスベスベした石の床でした。
そこに入ったとたん、シジミは歩くたびにツルツルとすべりました。あまりになめらかなので爪がほとんどひっかからなかったようです。
目的の部屋はカーペットが敷いてあってすべらなかったのですが、そこにたどり着くまではシジミはすべってかなり歩きにくそうにしていました。
館内を私をガイドしてくれた方に、
「今、シジミはどんな顔をしていますか?」と聞いて見たら、
「シジミちゃん、なんだか眉間にシワが寄っているみたいです(笑)」と教えてくれました。
たぶんシジミは、
「もう、何これ?、歩きにくいじゃない!」
と不満に思っていたのだと思います(笑)。

用事がすんでやっと歩きやすい外に出たとき、私はシジミにあやまりました。
「シジミ、ごめん。歩きにくかったね。 」
するとシジミはしっぽを振りながら、
「いいよ」とばかりに私の顔をペロペロと二回なめました。

それから私たちは、「口なおし(足なおし?)」に、外の歩きやすい歩道をしばらく散歩しました。
歩きやすい歩道をしばらく歩いたら、やがてシジミの眉間のシワもとれたのでした(笑)。


☆最近読んだ本:
『シェル・コレクター』アンソニー・ドーア著
『すべての見えない光』アンソニー・ドーア著
『8割の人は自分の声がきらい』山崎広子著
『光の彼方に』レイモンド・ムーディー著
『暗幕のゲルニカ』原田マハ著
『しいちゃん日記』群ようこ著

☆最近聴いた音楽:
『ホワイト』大橋トリオ
『バラード・アンド・スタンダード・ベスト』大橋トリオ
『グレッチェン・パーラット・シュープリーム・コレクション』グレッチェン・パーラット
『アメイジング・バド・パウエル(完全版)』バド・パウエル
『モンポウ:プレリュード集』熊本マリ
『ドビュッシー:ピアノ作品集』熊本マリ
『シューベルト:ピアノソナタ 第13番・21番』高橋アキ
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盲導犬は「かわいそう」か
2017 / 04 / 21 ( Fri )
「盲導犬はかわいそう」という声をたまに耳にすることがあります。


私もかつて、その言葉を直接他人から言われたことがあります。
それは私が盲導犬ユーザーになりたてで、一頭目の盲導犬スースーが我が家に来て一か月ばかりの頃、家族で小旅行に行ったときのことでした。
朝、ホテルの近くの公演をスースーと一緒に歩いていたとき、同じく犬を連れたご夫婦らしき二人連れとすれ違いました。お二人は私たちの方を見て何かこそこそと話していました。
そして、お互いが10メートルくらい離れたところで、奥さんらしき人が、こちらに聞こえるような大きな声で、
「かわいそう~~!」と言ったのでした。
その声は、早朝のほとんど誰もいない静かな公演の中で舟の汽笛のように響きました。
声のトーンには、自分が正しいと感じていることの優越感や、私に対するネガティブな感情が含まれているように感じました。
どうやら「かわいそう」という言葉も、スースーに対してそう思った、というよりは、「犬にかわいそうなことをしているユーザー」である私に向けられたもののようでした。
当時の私は盲導犬ユーザーになりたてで、そんな風に言われることも想像しておらず、その言葉はまるでいきなり石を投げつけられたような衝撃でした。
これはもう10年以上前のことです。

それ以来私は、ときどき「盲導犬は本当にかわいそうなのだろうか?」ということを考えるようになりました。

さて、盲導犬はなぜ「かわいそう」と言われることがあるのでしょうか?
その理由の一つは、ほとんどの人が盲導犬が外で仕事をしている姿しか見たことがないからなのだろうと思います。
仕事中の盲導犬は基本的にユーザーの支持に忠実に従います。
これが「命令に絶対服従させられている」という風に見えるのだろうと思います。
そして、いまだにかなりの人が盲導犬は家にいるときも含めて24時間このような「命令に服従している」状態にある、とイメージしてしまっているようです。
もちろん実際は、人間に仕事の時間とオフの時間があるように、盲導犬も家にいるときはハーネスをはずした「オフ」の状態です。
ハーネスは人間にとっての制服やスーツのようなものです。盲導犬もハーネスを身に着けているときは「仕事モード」になりますが、家ではそれを脱いでリラックスしています。
シジミが家でお腹を見せてひっくり返っている姿は、とても盲導犬には見えません(笑)。
こんな風にオフの時間の盲導犬は、リラックスしていて遊び好きで人なつっこいふつうの犬です(笑)。その様子はこのブログの他の記事を読んで頂ければわかると思います。記事の多くはオフの時間の、素顔の(?)盲導犬の姿が書いてあるからです。

では、仕事をしているときの盲導犬は「かわいそう」なのでしょうか?
私は仕事をする犬としての盲導犬を「かわいそう」だとは思っていません。
盲導犬はだいたい1歳から2歳になるくらいまで盲導犬としての訓練を受けます。
訓練は、決められた仕事を教えて、それができればほめることを繰り返し、「もっとほめられたい」という犬の気持ちを利用して進められます。
なので、盲導犬は仕事をこなしたときにユーザーから「グッド!」とほめられたときは、喜びを感じてうれしそうにします。

この「何か仕事をして、それがほめられるとうれしい」という感情は、人も犬もけっこう同じなのではないでしょうか。
例えば、小さな子どもはお母さんの仕事をお手伝いしてそれがほめられるとうれしそうにします。大人だって自分がした仕事を誰かにほめられれば喜びを感じるはずです。
そしてそのよろこびが仕事への作業欲につながるのだと思います。
犬が仕事をしてほめられるとうれしそうにするのも、これと同じではないかと私は思います。
もちろん人と犬は種が違うのですから、犬が人となんでも同じように感じたり考えたりするわけではありません。
でも、仕事に喜びを感じるのは人間だけ、と考えるのも人間だけを特別に考え過ぎで不自然な気がします。

獣医師で上野動物園や多摩動物園の園長も務めた増井美津子さんの著書『動物と話す本~表情、動作、声で彼らの言葉がわかる』(主婦と生活社)の中に「動物も自分の仕事に誇りを持つ」という章があります。
その中で著者は人間と暮らす動物に着いて、動物も人と同じように仕事に対する誇りと喜びを持っている、と書いています。

そうやって考えると、ユーザーである私が「盲導犬はかわいそうか否か」ということを考えることはあまり意味がないように思えます。

わたしは自分の意志で盲導犬のサポートを望んで盲導犬ユーザーになりました。
そしてそんな私の元に、盛大にしっぽを振りながらスースーもシジミもやってきてくれました。
彼らは盲導犬としての訓練を受け、最終テストに合格し、障害物をよけたり段差を知らせたりする仕事をこなすこと、そしてユーザーである私から「よしよし、グッド!」とほめられることに喜びを感じてくれています。
そして家では一頭の犬として、家族の一員として暮らしています。
盲導犬がやって来てくれたことで、外出して歩くことは私にとって「ちょっと不便な移動」から「楽しみな歩行」に変わりました。
そして盲導犬と一緒に暮らす生活は、私と家族にいつも喜びを与え続けてくれています。

なので私がするべきことは、「盲導犬はかわいそうなのか」などと頭で考えることではなく、現実に一緒に暮らしている盲導犬が、盲導犬としての仕事やユーザーとの生活に少しでも喜びや幸せを感じてもらえるように考え、それを実践することなのだと思います。

こんな風に書くのは簡単ですが(笑)、それを実践するのは実際には試行錯誤の連続です。

例えば「犬に気持ち良くきちんと仕事をしてもらう」といっても、個々に全く違う犬の性格を知った上でそれに合うようにほめたり注意したりする必要があります。
私の場合で言えばこれはスースーとシジミではずいぶん違っていて、パートナーがスースーからシジミに変わった当初はずいぶんとまどいました。
このことで頭を悩ませたりするとき、私はこれは「子育て」とか「社員教育」と似ているなあ、と良く思います(笑)。
個々の相手によってその都度どうすれば良いかが違うからです。
人間と犬を一緒にするなんて、と思う人もいるかも知れませんが、普通に思うより問題点や解決法はかなり共通しているのです。これはいつか別の記事に書くかも知れません。

生活面でも、主な健康管理については獣医さんによる定期的な診察やアドバイスがメインですが、病気とは言えない心身のストレスや緊張への対応や遊びとかスキンシップなどは、今の所あまり重要視されていないので私が自分で考える必要があります。
こういういわゆるQOL(生活の質)の向上も、ただ甘やかすというのとは違うものとして、きちんと考える必要があると思っています。

盲導犬は私たちユーザーにとって歩行をサポートしてくれるだけでなく、日常生活でもとても大事な存在です。
盲導犬ユーザーとなって11年が過ぎましたが、改めて盲導犬という存在を考えるとき、犬と言う人間とは異なる種が、私の歩行をサポートしてくれるだけでなく、いつもそばに寄り添っていてくれることで私に幸福感や喜びを与えてくれることには、いつもうれしい驚きと感謝をおぼえます。

今、パソコンに向かっている私のところにお気に入りのオモチャをくわえたシジミがやってきました。
シジミは私の背中にオモチャをグイグイ押しつけて、
「ねえ、遊ぼうよ」
と言っています。
「じゃあ、遊ぼうか!」
私が立ち上がると、シジミはブンブンしっぽを振りながら追いかけっこを始めるのでした(笑)。


☆最近読んだ本:
『羊と鋼の森』宮下奈都著
『音よ輝け』熊本マリ著
『イルカを追って 野生イルカとの交流記』ホラス・ドブズ著
『輪廻転生 驚くべき現代の神話』J・L・ホイットン著
『夜に鳴く鳥は』千早あかね著
『光の彼方に』レイモンド・ムーディ著
『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』日高敏隆著
『暗幕のゲルニカ』原田マハ著

☆最近聴いた音楽:
『モーツァルト ピアノ協奏曲ダイ26・27番』内だ光子 ジェフリー・テイト指揮 イギリス室内管弦楽団
『モンポウ:プレリュード集』熊本マリ』
『バルトーク:ピアノ作品集』ゼルジ・シャーンドル
『バルトーク:ピアノ協奏曲第3番』エレーヌ・グリモー ピエール・ブーレーズ指揮 ロンドン交響楽団
『アイランズ』キング・クリムゾン
『ホワイト』大橋トリオ
『グレッチェン・パーラット シュープリーム・コレクション』グレッチェン・パーラット
『キュア』菊地成孔 ウーア
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